LOGIN朱里の言葉が終わったあと、風の音だけが二人の間を通り抜けた。
駅前の喧騒は相変わらずなのに、ここだけ時間が一拍遅れているようだった。 嵩は、すぐに何かを言わなかった。 それが朱里には、ありがたかった。 問い返されるのも、掘り下げられるのも、今は違う。 ただ受け取ってほしかった。 「……怖かった?」 不意に、嵩がそう言った。 責める響きでも、探る声音でもない。 事実をそっと置くみたいな、静かな問い。(嵩の送別会) 店は、駅前の居酒屋だった。 特別おしゃれでもなく、 かといって雑でもない、 会社の飲み会にはちょうどいい場所。 「では、本日は平田さんの送別会ということで──!」 乾杯の音頭とともに、 グラスがぶつかる音が響く。 拍手。 笑顔。 「お世話になりました!」という声。 嵩は、いつも通り穏やかに笑っていた。 「ありがとうございます。 正直、まだ実感はないんですが……」 模範的で、角の立たない挨拶。 朱里は、その斜め前の席に座っていた。 グラスを持つ手が、少しだけ強張っている。 (……送別会、なんだ) 分かっていた。 ずっと分かっていた。 でも、 「転勤の話」 「話す場所」 「言葉を選ぶ夜」 そうやって細切れに受け止めてきたものが、 この拍手で一気に“現実”になった。 「中谷さん、大丈夫?」 隣の瑠奈が、こそっと声をかけてくる。 「……うん」
(田中美鈴視点)朝のオフィスは、いつも通りだった。コピー機の音。コーヒーの香り。始業前の、少しだけ緩んだ空気。その中で、美鈴は一瞬で気づいた。(……ああ)朱里が、いつもより少し静かだ。無理に笑ってはいない。でも、考えごとをしているとき特有の、視線の置きどころのなさがある。数分遅れて出社してきた嵩も、同じだった。挨拶は普通。態度も変わらない。けれど、美鈴の目にははっきりと映る。(二人の“間”が、昨日より張り詰めてる)悪い意味じゃない。壊れそうな緊張じゃなくて、触れれば動いてしまう、完成直前の形。美鈴は自席でPCを立ち上げながら、ふっと小さく息を吐いた。(……もう、私の出番じゃないな)少し前なら、声をかけていた。朱里をランチに誘って、「不安なら不安って言えばいい」そう背中を押したかもしれない。あるいは嵩に、「彼女は強がるタイプだから」と釘を刺したかもしれない。でも、今日は違う。朱里は、自分で考えている顔をしている。嵩は、自分で選ぼうとしている顔をしている。その間に割って入るのは、
(嵩視点)部屋に入って、電気をつけなかった。スーツのままソファに腰を下ろし、背もたれに頭を預ける。今日一日、頭のどこかでずっと引っかかっていたことが、静けさの中で、はっきりと形を持ち始めた。(朱里は……何も言わなかった)引き止めもしなかった。責めもしなかった。期待も、不安も、全部飲み込んだような顔で、ただ話を聞いて、頷いて、そこに立っていた。嵩は目を閉じる。思い出すのは、別れ際の朱里の横顔だ。笑っていたわけじゃない。でも、泣きそうでもなかった。あの表情が、ずっと胸に残っている。(あれは……納得、じゃない)そう思った瞬間、胸の奥がひくりと痛んだ。納得していたなら、もっと楽だったはずだ。「行ってください」そう言われていたら、覚悟はもっと単純だった。でも朱里は、そう言わなかった。嵩はゆっくりと息を吐く。(じゃあ、なんで言わなかったんだ)遠慮?大人の配慮?それとも──信頼?どれもしっくりこない。朱里は、言葉を選ぶ人だ。感情がないから黙るんじゃない。むしろ逆で、感情が多す
部屋の電気をつけたまま、朱里はベッドに腰を下ろした。鞄を置く気にも、着替える気にもならない。ただ、さっきまでの時間が、まだ体の中に残っていた。(引き止めなかった)それが、今夜いちばん大きな事実だった。「行かないでください」 「一緒にいたいです」 「私のこと、どう考えてるんですか」言おうと思えば、いくらでも言えた。でも、言わなかった。嵩が選択を差し出してくれたのに、それを“縛る形”で受け取るのが、どうしても怖かった。スマートフォンを手に取る。画面は暗い。通知も、メッセージもない。(……これで、よかったの?)問いが浮かぶ。正解かどうかなんて、分からない。ただ分かるのは──言わなかった分だけ、胸が痛いということ。朱里はベッドに仰向けになり、天井を見る。「引き止めないって、大人な選択だよね」小さく呟いてみる。でも、その言葉は、どこか他人事だった。大人だから引き止めない。相手の未来を尊重するから言わない。それは、たしかに綺麗だ。でも。(本当は……怖かっただけじゃない?)言って、拒まれるのが。重いと思われるのが。
「……実は」その先の言葉を、嵩は一度飲み込んだ。朱里は何も言わない。促しもしない。ただ、ここにいる。それだけで、嵩は続きを話せた。「転勤の話が、正式に出てる」やっぱり、とも思ってた、とも朱里は言わなかった。胸の奥がきしんだまま、黙って聞く。「日程も、だいたい決まってる。 早ければ、来月」一ヶ月。数字にすると、あまりにも短い。朱里の指先が、わずかに震えた。「……もう、決まってるんですか」声は、思ったより冷静だった。嵩は首を横に振る。「“行く前提”ではある。 でも──最終決定じゃない」朱里が顔を上げる。「断れる、ってことですか」「正確には……選べる」嵩は言葉を選びながら続けた。「条件も悪くないし、評価としては悪くない。 断れば、少し面倒な立場になるかもしれない」それはつまり、行くほうが楽だということ。朱里は、そこまで理解した。「でも」嵩は、そこで初めて朱里を見る。「昨日までなら、俺は一人で決めてた」その視線
公園の奥で、足音がした。砂利を踏む、控えめな音。朱里は振り向かなかった。振り向いたら、今まで積み上げてきた覚悟が、少し崩れそうだったから。「……待たせた?」嵩の声が、背中に届く。近い。でも、触れない距離。「いえ。今、着いたところです」嘘ではない。ほんの少し、早く来ただけ。嵩は朱里の横に立ち、同じように空を見上げた。視線が重ならないのが、ありがたかった。二人の間に、静かな時間が流れる。夜の公園は、思ったより明るい。街灯の光が、影を長く伸ばしている。「……ここ、覚えてた?」嵩が、ぽつりと言った。朱里は、少しだけ笑う。「忘れるわけないです。 私が一番、格好悪かった場所ですから」「俺は……一番、何も言えなかった場所だ」その言葉に、朱里の胸が小さく鳴った。(ああ、同じだったんだ)どちらも、完璧じゃなかった。だから、この場所が残っている。嵩はベンチに腰を下ろし、朱里も少し間を空けて座る。距離は、昨日と同じくらい。でも、意味は違う。「今日さ」